富士山須山口登山歩道再興の人


 渡辺徳逸氏(1900〜2006)享年105歳

 静岡県裾野市須山在住

 富士山資料館名誉館長

 富士山研究の第一人者

 郷土史研究家

 須山地区上水道(深井戸)研究の先駆者

 翻訳家

 登山家(日本山岳会会員)
会員NO1,784でした。


須山口登山歩道復興の歴史

須山口登山歩道とは

 西暦700年代奈良、平安、鎌倉、江戸・・・と1707年(宝永4年)まで富士山の噴火が
 休んでいる時、修験者に始まり修行や信仰の為登山者の多くが須山口登山道を利用した。
 1707年(宝永4年)に須山口登山道が爆発、第一火口、第二火口、第三火口が出現、
 須山口登山道は廃道になる。
 1780年(安永9年)爆発より73年後、勝田惣次郎とその息子らによって、
 大野原を通って宝永山の東側を登る須山口登山道が復興され多いに賑わった。
 1883年(明治16年)東海道線の開通を見越して御殿場口登山道が須山口二合八勺に
 連結される。
 1889年(明治22年)東海道線御殿場駅が開設され須山口登山道は衰退の道を辿る。
 1912年(明治45年)衰退した須山口登山道は陸軍用地に撤収され再び廃道になる。

 明治、大正、昭和、平成と一世紀地元須山で生き抜いてこられた渡辺徳逸氏は
 富士山の研究をする傍ら、なんとか須山口登山道の復興ができないものかと画策をする。
 1930年(昭和5年)国立公園制定の準備が始まり、内務省国立公園協会の田村剛理事長
に須山口登山道の復興を計画に含める様進言し調査報告書を提出するに至るまで
国府犀東や小島烏水らの指導があった。
 田村理事長はその案に賛意を表してくれたが、その頃さまざまな開発計画があり、
その計画に渡辺氏が反対した為、須山口登山道復興計画も他市町村の反対に遭う。
 1936年(昭和11年)富士山国立公園が制定されたが、須山口登山道の復興はなかった。
しかし、国府犀東らの力添えに依り、愛鷹連峰越前岳〜黒岳山頂まで富士山国立公園
 特別地域に指定された。それ以後、渡辺氏はひたすら須山口登山歩道の復興を願い、
地域の為にならない開発計画は許さなかった。
 1992年(平成4年)渡辺氏92歳機熟せりと動いた。
 それは富士山のことを学んでおこうと地元の有志が渡辺氏を囲む会を作り、
学ぶ姿勢を見せたからだ。
 1994年(平成6年)渡辺氏の話に耳を傾ける有志が発起して須山口登山道の
調査が始まる。
 1997年(平成9年)下草刈り、道標を整備して須山浅間神社から富士宮新六合目
まで登山歩道が一本に繋がった。上り登山道の復活である。
 1999年(平成11年)御殿場市、裾野市の行政の協力を得て御殿場口
二合八勺より
旧登山道を復元して下山歩道が完成する。

 他の登山道とは目的や趣が異なる、現代に相応しい「須山口登山歩道」の復活が
 実現したのである。

2000年(平成12年5月)登山歩道復活を契機に渡辺徳逸氏日本山岳会に復帰。

富士山須山口再興の指導者渡辺徳逸翁逝く
富士山を愛し山を愛して富士山須山口の復興を夢見て一世紀、廃道の時代から
1996年に85年振りに復興した須山口登山歩道の発展を10年見届け
2006年1月23日4時29分105歳と6ヶ月の天寿をまっとうされました。
戦前日本山岳会の先駆者から指導を受けその精神を受け継ぎ戦後のどさくさから
会員の資格を失いましたが須山口の復興を機に日本山岳会の最高齢者として
皆様に見守られながら旅立ちました。この場をお借りしまして渡辺翁のご冥福を
お祈り申し上げます。      平成18年1月28日 保存会委員 KK


 下草刈りなど須山登山歩道を整備した
 「富士山須山口登山歩道保存会」
 創設期の役員さん達。初代会長土屋定平氏、2代目会長手綱拓史氏3代目会長杉山末雄氏は
身罷りました。
4代目会長渡邉政幸氏〜5代目会長根上雄介氏の下活動しています。


 富士山須山口下山歩道完成により
 須山小学校前に案内板が設置された。


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