新ルート

  念願の富士急ゴルフ場近辺のルートが歩きやすくなりました。

◎登山歩道の一部区間が、御殿場市と裾野市の境界の沢を利用せざるを得ませんでした。
 大雨の際、登山者は難儀をされたと思います。
 昨年の秋、富士急行さんと振興会理事長との話し合いにより、ゲレンデの一部を借用し
 登山道は沢に降りず、裾野市側の高台を歩く歩道が完成しました。
 これからは安心して登山を楽しめます。

 ルート沿いのゴルフ場はスポーツ選手の為の高地トレーニングの場所として生まれ変わる予定です。

写真1



写真2


写真3
ここから沢に降りないでください



◎現在の須山口の状況
 須山浅間神社と須山口登山歩道に訪れる登山者が徐々に増えてまいりましたが、
 他の登山道と異なり、山小屋は有りません、しかし一年中楽しめる登山ルートです。
 駐車場やトイレも新しく完備しましたのでみなさまのお越しを心よりお待ちします。


◎昨年須山の旧御師(御師名渡辺隼人)家の持ち主渡辺敦夫氏より須山振興会に
 資料が寄贈されて、その周辺の建物や地木を振興会が買い取った。
 今後この大切な文化遺産の保存方法が検討される。


◎「富士山須山口登山歩道と須山浅間神社、御師の家の文化的価値について」
 須山口登山道は、宝永4年の大噴火まで、歴史的に他の登山道に引けをとらない
 栄えた登山道でした。
 しかしその噴火によって、須山口登山道の五合目付近(三合目から六合目)が
 壊滅状態になり須山村民の生活が成り立たなくなってしまった事、それは歴史上の
 事実です。
 林業の傍ら、何としても復活させようと30年後に地元の有志は試みたのですが、
 あまりに大きな被害の為、実現は無理であった。
 それでも諦めきれず、西暦1773年(安永四年)須走口と大宮口(現富士宮口)が
 頂上の権利争いをきっかけに、西暦1780年(安永9年)宝永の噴火から73年後
 地元須山村民の力を結集し、浅間神社から大野原十文字を通り、お胎内(一合目)
 から幕岩を通過し、宝永山の東を回りこんで、須山口二合八勺(現在御殿場口新五合五勺)
 から宝永噴火前の須山口登山道七合二勺に繋ぎ、頂上銀名水までの道を完成させた。
 このコースは今、太郎坊から頂上までの間、御殿場口の登山道になっているが、
 かつての須山口で、年間登山者数5,389人の記録もある。
 しばらくの間賑わったが、明治16年東海道線の開通を見越して、御殿場駅から
 須山口二合八勺(御殿場口で言う新五合五勺)に道を繋いだ為、
 須山口は疲弊してしまった。
 さらに追い討ちをかけるように、大野原を通過する須山口登山道が明治45年、
 陸軍の演習場に接収され、再び壊滅状態になった。
 須山村民はそれでも生きて行かなければ成らない、歴代の名主は須山口の復興を
 再々試みたが、登山客の奪い合いになるからと、回りの反対にあい、実現できなかった。
 その歴史を須山の長老や自らの研究で学んだ渡辺徳逸氏は生涯をかけて
 復興の狼煙を上げ、地元の若者を育て、その結実が平成9年の「須山口登山歩道」
 としての復活である。
 明治45年登山道が陸軍用地に接収されてから85年ぶりであった。
 現代は自動車社会であるが為、「昔の人々と同じように浅間神社から歩いて富士山に
 登ろう」との願いで復活させたのが『須山口登山歩道』であり、その名前には大きな
 意味がある。


 世界遺産に指定されれば富士山の自然は未来永劫守られるだろう。
 しかし、日本人が考える文化遺産では無くなるかも知れない。それは、日本人の富士登山
 と言う文化活動に世界の識者が、はたして理解を示してくれるかどうかにある。
 世界遺産に登録がかなうならそれは喜ばしい事、我々は、たとえ世界遺産にならなくても、
 日本国万人の心の山であり、過去の人々が富士山の自然や文化を守って来たように、
 今の私たちもそうするべきで、今の私たちの手で富士山を破壊したり、登りたい人を制限
 したりしてはならない。これから生まれてくる未来の人々もそう思ってくれると信じる。
 富士山が、世界文化遺産に決定した事で、さらに御師の家も構成資産の一部に加えて
 ほしいものです。
 地元として、願っても無いこと、富士山を国と地元と国民が連携して守っていけたら
 最高に素晴らしい事と思う。
 人が登ってこその富士山である。
 それ故に須山口登山歩道は御殿場口も含めて世界文化遺産の構成資産に含まれる事を
 望むものである。。


平成28年9月7日
文面修正  裾野市山岳協会代表 勝又一歩



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