富士の裾野に秘境あり
 
 
 十里木高原の宿「愛鷹荘」が、待ち合わせ場所であった。松野車(松野夫婦)も、先着
の新井車(小林、小川、高野、新井)に続いて到着する。今回の趣向は、一昨年に新登山
道を85年ぶりに復活させた須山道をたどり、樹林帯を通って宝永山に至るというもので、
どのガイドブックにも載っていないコースを試みるものである。
 8月9日、夕食前に宿の近くの十里木高原を見渡す公園に出掛けた。ここは国府犀東の
七言絶句の詩碑があるところで、富士の全景が見える。昔の五拾銭札を飾った図である。
あいにく我々の前の富士は、西日のせいで日陰の富士であった。笠雲をいただいているも
のの裾野を左右に雄大に引いており、満足の行く風景であった。よく見ると、明日の目的
地である宝永山の噴火口が大きく富士の正面にあり、あまり見かけぬ富士山との対面であ
った。
 8月10日、暗いうちに起きる。十里木別荘地を抜け、日本ランドHOWの南富士エバー
グリーンを駆け登る。静かな朝であった。広々とした水ヶ塚駐車場に着く。この時期富士
登山のマイカー規制で、ここでバスに乗り換え新五合目に向かうことになる。かなりの数
が駐車していた。富士山は残念ながら雲の中であった。本来なら朝日を浴びる雄姿が身近
に望めるというのに。朝弁当を摂った後、いよいよ出発となる。南西の方向、駐車場越し
に大きな虹が架かっているのを見つけ嘆声をあげる。
 そもそも須山道は、古来から利用されていたが、東海道線御殿場駅が出来、客が流れて
しまったこと、又、陸軍が演習場に占拠したことで、須山口登山道は衰退してしまったの
である。ところが地元の渡辺徳逸氏が昭和五年以来、この登山道の復活に情熱を傾けてお
られた。ようやくその機運が盛り上がり、翁を中心に人々が集まり、ここに手作りの歩道
が復活したのである。渡辺翁は九十九才の須山登山道の生き証人で、市立富士山資料館の
名誉館長をされている。私は昨十二月にお目にかかったが、記憶力抜群に驚き、富士の環
境保護を説き、須山を愛する情熱には、まったく頭が下がる思いであった。
 須山道のスタート点は、須山浅間神社である。実は前日訪れているのだが、境内には五
百有余年の老杉があり。森閑とした神域であった。この出発点からの前半部については、
我々は割愛することにした。ルートを記しておくと、浅間神社:貯水場:外周道横断:忠
ちゃん牧場:富士山資料館:弁当場:十里木キャンプ場:鉄塔:フジバラ平:大貯整池:
水ヶ塚水源:水ヶ塚駐車場となる。約5時間所要である。
 さて、登山入り口一合目は、標高1450米。樹林帯の登山道は、巾広く、シノダケなどの
下草刈りがなされ、歩きやすい。富士登山と言えば、ガラガラ溶岩と砂礫の道が定番であ
るが、この登山道の後半部は、緑濃き林間にあり、心和む道であった。樹木に名前表示が
付けられていて、至れり尽せりとなっていた。ミズナラ、ブナ、キハダ、ヒメシャラ、モ
ミ、カラマツなど。足元の周りには、カニコウモリの花盛りがあり、ホタルブクロが沢山
出迎えてくれた。ヤマハハコ、イチヤクソウ、キオン、アザミなど。ガンクビソウの大群
落には初めてお目にかかった。季節を変えれば、特に五月末あたりはさぞかし見事な花々
に会えるであろう。さらに耳を澄ませば、ウグイス、ヒガラ(ツツピンツツピン)、メボソ
ムシクイ(チョリチョリチョリチョリ)、コルリなど。時々、木の間越しに下界が見えたが、
ガスが濃くなり、昨日の笠曇、朝の虹で予報されていたように、天気は悪くなりつつぁっ
た。
 いつしか霧ションになっていた。時々小雨。雨具を着ける。標高2000米あたりから、カ
ラマツ林は背が低くなり、枝振りは強い西風のため東側のみの伸びに強いられている。渡
辺翁の命名になる「御殿庭」に着く。台地状の斜面に山岳庭園とも言える巨石やコケモモ
などのカーペットが敷かれた空間があった。御殿庭中が2150米。御殿庭上が三合目で2275
米。森林限界をそろそろ抜け出すあたりから風雨がきつくなってきた。砂礫の道になる。
一見コマクサと見間違えたが、それは矮小化したホタルブクロで、健気にも散在している
のであった。雨のムラサキモメンヅルは可憐であった。
 すぐ上に砂礫の丘が見えてきた。吹きさらしの登路で、一段と風が激しくなった。せめ
てあの丘の上までと、励ましあって登る。四合目2352米で、宝永山第二火口の縁にたどり
着き、直ちにUターンする。立っていられない風の強さや、雨に濡れて寒さがこたえてき
たり、先が何も見えない事態になったことが決定的となる。トラバースして予定していた
下山路をとることを考えないでもなかったが、このシルバー隊では、すんなりバックする
にしかずと、敗退を甘受した。
 樹林帯に引き戻ると、ウソのように風は止んでいた。救われた感じで、ゆっくりおやつ
を摂る。もう登ることなく、後はただ下るのみ。悪天の中、ここまで登ることができたの
は、豊かな樹林があればこそであった。ミカンの缶詰を開けたり。氷ブドウをつまんだり、
楽しい憩いがあった。
 もはや勝手知った下り道を、余裕を持って周りを見渡しながら歩を進める。「意外にき
つい道だったなぁ。」「台風の倒木が多いなぁ。」「鈴なりのホタルブクロがほれあっち
にも、こっちにも。」「あっ、珍しい蝶だ。」それはアサギマダラだった。何頭も乱舞し
ているのであった。まるで夢幻の境地にあるようだった。我々以外に一人も会わない、我
々だけの至福の時間であった。これこそ秘境といって良いだろう。須山道の後半部の静け
さを、じっくりと味わいつつ、長い下りを水ヶ塚へ向かう。大満足であった。
 駐車場の隅にある東屋で遅い昼弁当を摂る。青空が見え日が差してきた。濡れ物を乾か
す。しかし、出発する時は、再び雨となる、「けったいな天気だなぁ。安全運転で帰ろう」
と、二台の車は無線交信をしながら、河口湖の温泉を目指した。

                       1999、8、19     新井 浩



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