富士:宝永山 登山記

                               山田 博利

 今年のゴールデン・ウィークは岩と雪の山に登らずに、‘古本’の山に登っていた。
寺田寅彦に『銀座アルプス』というのがる。銀ブラを、日本アルプスの縦走に見立て
た、小粋なエッセーである。それにあやかって、京阪神の古本屋を漁った。雑本を十
数冊買ったが、その中の1975年:新潮社刊の超大型写真集『富嶽三十六景』は、
新潮社の写真部が撮ったもので、有名な写真家のものではないがすばらしい。そこに
は見開き二頁に宝永山が載っていた。この写真集でいちばん雄大であった。これが宝
永山への想いを、いっそう募らせた。
 六月九日(土)JR大阪駅北口に八名集合。CL新井岳兄・SL中島岳兄がマイカ
ーを提供してくれ分乗する。名神・東名を経て、裾野ICで降りる。そして、裾野市
の「富士山資料館」を訪れる。三年ほど前、天保山のサントリーミュージアムで、「
日本の心:富士の美」展があった。富士山に関するエンサイクロペディア的な展覧会
であった。この裾野の資料館の展示はそれに比して、明日下る須山口登山歩道をはじ
め山道について詳しく、参考になる。そこから今日の宿亭に向かう。夕食のとき、地
元の裾野市山岳協会快調の勝又さんより、富士登山道についての話を伺った。
 それによると、須山口登山道は平安時代からあり、江戸時代には富士講などで賑わ
ったそうだが、宝永の大爆発(1707年)で道は壊滅的な打撃を受けた。その後、
地元の献身で復興した。しかし、明治にはいると御殿場に鉄道が開通したので、須山
道は寂れた。でも小島烏水や冠松次郎は、このほろびゆく古道をこよなく愛したそう
である。昭和の初期からの‘渡辺徳逸’翁(現在101歳)や地元山岳会の努力が実
り、平成九年、「須山口登山歩道」として復活した。
 六月十日(日)朝5時に宿の車で出発、表富士の新5合目まで行く。ここらはもう
2000mを超えていても、風がなくて寒くない。あいにく下界は曇っていて見えな
いが、仰ぐと富士山山頂の白いレーダードームがポツンと指呼の間にある。実際は高
度差1500mあるはずだが、あまりにも近くに見えるのに驚く。ここでスープを飲
んで朝食をとる。
 これからが宝永山登頂である。ここから直登すれば富士山頂だが、われわれは御中
道を通っていったん休火口に降り、一歩一歩宝永山頂を目指す。これが思いの外、時
間がかかる。稜線を経て山頂まで、優に1時間も。宝永山山頂からの雄大であろう展
望は、残念ながらきかなかったが、富士山頂が雲間から時々顔をだす。富士はやはり
日本人の心であると、今更ながらに悟った。下山は今きたコースを戻り、新五合目手
前の稜線を下る。これが今回メインイベントの須山口登山歩道である。左手にもう一
つの宝永火口を俯瞰しながら下る。赤黒い溶岩土壌が不気味だった。薄緑の新芽を吹
き出した。カラマツの木々が点在していた。砂岩質の道を下るにつれ、樹木が増えて
くる。よく整備された、静寂な路である。標識も完璧。遅咲きのツツジの一種だろう、
紅梅色が印象的だった。確かに気温も上がってきただろうと感じた頃、水ヶ塚のパー
キングエリアに着いた。小島烏水の「古しくて亡びゆくもの皆美しき」は富士の古道
にふさわしい句である。今日の須山道がそれだ。50数年前、私が高校生のころ富士
山に登った。下りは須走りだった。砂を押しながら下った。こんなだと富士山の形が
変わるのでは?と思った。昨夜、勝又さんに尋ねたら、富士特有の烈風が砂を押戻す
から大丈夫だとの事だった。(笑)
 帰りに富士宮の‘天母の湯’につかって見も心も癒し、日もどっぷりと暮れた頃、
大阪に着いた。
 最後に、今回のような珍しい山行を企画していただいた新井岳兄、車を提供して下
さった同じく新井・中島両岳兄に、御礼申し上げます。


【タイム】
6月9日
JR大阪駅           (7:00出発)
多賀、浜名湖、富士川SAで休息
裾野IC           (13:30)
市立富士山資料館       (14:00)
大富士旅館          (16:00)


6月10日
出発              (5:00)
新5合目終点          (6:00)
宝永山頂上           (8:35)
須山道下山、水ヶ塚中     (12:30)
天母の湯           (13:45)
牧ノ原、上郷、菩薩寺Pで休息
大阪帰着           (21:00)


【参加者】
新井  浩  新井 幹子
井谷  孝  久保 三郎
小谷 英雄(京都支部)
中島  隆  信田 邦子
山田 博利 以上8名
            
                           山田氏のプロフィール
                            1932年生
                            JAC関西支部会員
                            日本山書の会会員 


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