目について二題

                               新井  浩

 一、今年六月、日本日本山岳会関西支部例会で、富士宝永山へ出掛けた。麓の須山
からの出発はあいにくの霧雨で、上へあがるに従い霧が濃くなるという悪天候であっ
た。それが富士スカイラインを上がっていくに従いだんだんと明るくなり、遂に終点
の新五合目では、山頂が見えるというラッキーなお天気だったわけである。一同は御
機嫌で朝食を済ませ、東の方向にトラバース気味に登っていく登っていくことになる。
富士山の美しい斜面が一箇所、そのラインを乱して出張っている所が宝永山で、いま
や逆光の中、約1キロメートル先にその姿を視野に捉える事ができた。
「宝永山に人影が見える!!」
「こんな早くに、馬鹿な??」
 この時私は目のいいシェルパのことを思い出していた。昨年西北ネパールを訪れ、
チベットに接する荒涼たる地を歩いている時だった。「野生の馬がいる!」とシェル
パが叫ぶ。しかし私には見えない。教えてもらった方向を目を凝らして見つめ、やっ
と認める事が出来た。数頭の群で疾走して行く姿であった。その眼力には敬服せざる
を得なかった。(本当は野生馬でなく、野生のロバが正解と帰国後判明。颯爽として
いて、とてもロバとは思えなかった)
 さて、噴火口の底からガラガラ道を一時間かけて宝永山山頂に立つと、人影は実は
防護柵だったことがわかる。あたかも空中に突き出ているジャンプ台のような先が山
頂で、そこに激しい風に飛ばされないようにとの配慮から、安全柵が設置されている
のだった。この場にシェルパ達が居れば、陽気な彼らはきっと笑いころげていること
だろうと思った。


 二、次は人間の視力から、ガラリと変わって、ヒツジの目についての忘れられぬシ
ーンを御紹介しよう。同じ目ということで、御許しを頂きたい。上述と同じネパール
でのこと。
 食料として仕入れていた羊の解体場面を、物珍しく写真に撮ろうと立ち会った事が
ある。コックチームがポーターの手助けを得て、皮を剥ぎ、いまや内臓を取り出さん
と大童になっている時、見物人の中にチベットの老人が居るのに気がついた。直ぐ近
くのカルカに黒いテントを張り、夏草を求めて遊牧中のチベット一家の一員だった。
 解体作業の片隅に転がっていた羊の頭に気がついた老人が、頭を手に取りチャンと
真っ直ぐに立ててやっていた。じっと見ていると、次に口からだらりと出ていた舌を、
口の中に収めてやっていた。ついで開けていた両目を懸命に閉じるように撫でている
のであった。虚しく空を見上げていた羊の目は安らかに閉じられた。ここに目出度く
成仏出来たに違いないと私には思われた。この一連のチベット老人の仕草は、さり気
無い、ごく自然なものであった。私はこの光景を見てすっかり感動してしまった。
 チベット人の信仰心、それは魂の奥深くにあり、彼らの生き方そのものなのであろ
う。羊の目を通じて教えてもらったことである。
               


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